思索の庵 20
                 

"The hermitage of the speculation
"
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  「不退転」の世界に住す 東井義雄住職に学ぶ 
編集・管理人: 本 田 哲 康


 はじめに
 =不退転の世界  クヨクヨしない、こころ静寂な世界・・それは絶対他力の世界だった !

                              
 1990年に収録されたNHKの番組を、アーカイブス版として2005年8月に再放映された。
 テーマは、「仏の声を聞く」であった。
 翌年に、氏はお亡くなりになった。
 かすれたか細い声で腹の底から絞り出すようにお話になっておられた。聞き取りにくかったが、それでもなぜか録画しておいたものを、消す気になれず、何度もくり返して聴いた。観た。
                    
 「そうだ!ここの部屋・思索の庵の流れの中に組み込ませていただこう!」と、決意した。
 繰り返しくりかえし何度もテープを戻しながら、可能な限り忠実に、ここに再現させて頂きました。
☆ 対談の内容  (要約)
T 仏の声を聴く ・・・ 一番感銘を受けたこと

 一番安くて勉強できる学校が師範学校であった。この時に一番感銘を受けたことがあった。・・・・・・・。この学校で、二年生の夏休みに宿題が出た。
 ”漢文の本を一冊読んで来る”という宿題であった。
 本を買うお金がない。「お経だって漢文だ!そうだこれを読んでやろう。」と、決意した。
 そこで、浄土三部経を読むことにした。その中にこう書いてあった。


独来、独去
どくらいどっこ

 
無一(むいつ)ずいしゃ
   ・・・であった。

「独り来たり、独り去り、         

 一
(いつ)の随(したが)う者なし。

・・・・・・・・

(み)自らこれにあたる、      

 代る者あることなし

・・・・・・・・・・・・・・」  
   
大無量寿経
代る者なし   ・・・ たまたま無かったの意

誰も身代わりになってやることが出来ない。
代る者あることなし・・ 金輪際ありっこないの意

  
『世界中こんなに沢山人間が入るのに、いざとなったらみんな独りぼっちなんだ!

 私という人間は、世界中に一人しかいないんだ!』と、・・・・・。

                   

 小学校1年生の5月に亡くなった母親の最後の呼吸音が鮮やかによみがえってきた。

                   

 『母が命がけで教えてくれた事を忘れていた。おかぁちゃんすまなかった。「人間独りぼっちなんや」』と、思い出した。

 ・・・と、しみじみと、繰り返して話された。

「独り来たり、独り去り、           

   一
(いつ)の随(したが)者なし。

   ・・・・・・・・・・・・・・

   身
(み)自らこれにあたる、         

 代る者あることなし

・・・・・・・・・・・・・・」 
     
大無量寿経

 
この大変さを換わってくれる者がない。この辛さを自分で背負ってゆかなければならない。
 独りぼっち・・・なのである。
                   
 この時の漢文の先生の宿題は、如来様のお手回しではなかったのではないか?!と、今思う。
 氏は、「一生、忘れることの出来ない言葉になった。」と、述べていた。


U 懊悩の時代
 
 昭和7年。
 この年は、満州事変の終わった時期であって、弁当を持ってこられない子供も大変(大勢)居た。
 昼になると多くの子供は水を飲んで空腹を満たしていた。

 そんな有様を観て、だんだん世の中の仕組みに疑問を持つようになった。

 その後、唯物論の思想に入り込んだ。
 『仏様も糞もある者か?!』等と思っていた。警察から目を付けられるようにもなった。
 電車に乗っても、道路を歩いていても、尋問されるようになった。
                   
 そして、『仏様も糞もある者か?!』等と、そう思いながら父親に換わって村中を「阿弥陀経」をあげて廻っていたのであった。
 そのころの日記に、
                                             ( )内は、管理人の注
「阿弥陀経に明け暮れり ひょっと無神論が頭をもたげて あぁ!わしは知らんぞ!」
        と言うようなことが記されている。

 父に代わって、毎朝、勤行(ごんぎょう)をする。
 お経の後で、蓮如聖人の御文章を読む。

 そんな毎日が続いた。


「五劫思惟(ごこうしゆい)の本願」

 「兆載
(ちょうさい)永劫の修行」

                第八世 蓮如 御文章 より
意訳;
計り知れない長い時間を費やして、我々衆生を救うために修行なさった。云々
   ・・・・・と。
 だが、
 『こんな出鱈目
(でたらめ)が信じられるか?!そんな証拠(しょうこ)がどこにあるか!』と、
 思いながら読んだものである。

 そのころの日記に

「五劫思惟(ごこうしゆい)の本願というも                

 兆載
(ちょうさい)永劫の修行というも、しみじみと似せ坊主の罪深し」

          ・・・・・・と、しみじみと自分の気持ちのたまらない有様が書いてあった。

 また、ある日、勤行(ごんぎょう)をしている側(そば)にネズミがチョロチョロとやってきた。
 お供え物を食べに来たのだ。

 読経しながらネズミをしかりつけるかのように、勤行の声を大きくして唱えた。・・・・・・。
 「ネズミにも馬鹿にされる仏様じゃぁないか?!」と思いながら読経を続けた。

 しかし、ふっと振り返ってみると、・・・・・・?!

 仏を信じてもいない自分が、・・・・、心の籠(こ)もらないお経を唱えて、・・・・、
 その後でごっそりとお供え物を取り上げる。・・・・・?!これは・・・・?! ・・と、・・・・・。

 自分は、ネズミ以上の恐ろしい存在であることに気づいた。
「坊主、この偽(にせ)坊主!汝は飯(めし)を盗むか! クソ坊主」

 ・・・と、日記。

 教員になって五年目。高等五年の生徒。K君。毎朝新聞配達をしながら学校に通う生徒であった。

 ある日その生徒から質問を受けた。
 『先生! のどの真ん中に垂れ下がっている”のどちんこ”って、何のためにあんのや?』。

 ”のどちんこ”の役割を問われたのである。そのときには解らなかった。

 その夜に調べて正確な名前と役割が理解できた。名前は、口蓋垂
(こうがいすい)
 役割を書物で調べて、深夜まで懸かってやっと解って、そしてビックリした。

『俺が生きてやっているんだ!』
 ・・・という顔をして生きていたが、・・・・・
 知らないうちに働いてくれている体の諸器官。
 胃や腸・・・・、心臓!!これが仏様なんだ!・・・・・と解った。
 そのときにふっと思い出した。
「凡聖逆謗斉廻入(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう)
 如衆水入海一味
(にょしょうすいにゅうかいいちみ)
 ・・・・・・・」   
親鸞 「正信偈」より
意訳;
 凡   ・・・・ ぼんくらのこと
 凡聖  ・・・・ 何も知らないのに聖人ぶったさま
 逆   ・・・・ 大いなるものに逆らうこと
 謗斉廻入・・・ 一切をまとめて改心させる

 今まで仏様に背いていた自分が、
 実は「仏様の御手
(みて)の中で包まれていながら彷徨(さまよ)っていたのだ」と言うことに気づいた。

V 生かされていた !  
その1  娘が生まれた。・・・・・・が

 娘が生まれたが、難病で今にも死にそうであった。
  (年表を拝見すると、昭和16年に「愛児の大病」とある。病がままならず、その何年目後かのことであろう。・・・管理人)

 脈が止まったり動いたりの日々が、しばらく続いた。・・・・・。

 一日が過ぎて、夜中の12時を過ぎると、
 「あぁ、今日一日、一緒に生かせて頂いた!!」と、感謝の念でそう思った。

 娘も、そして自分たちも、「お互いに、生かされていたのだ!」と、この時も仏の御手の中にいることを気づかせて頂いたのである。
「諸仏如来は是(これ)           
  法界
(ほっかい)の身(しん)なり。
一切衆生の心想
(しんそう)の      
  中に入り給う。
・・・そして衆生をお救いになる。
  ・・・・・・」

      「観無量寿経」 より














 ・・・・「気づいた」のではなく、”大いなるものに”気づかせて頂けたのだ!と、また、気づいた。

その2  鈴木章子 氏のこと
 北海道斜里町にある真宗西念寺坊守、もと大谷幼稚園長。昭和63年癌のため47歳で死去。
著書に、「癌告知のあとで」  ー 私の如是我聞(にょぜがもん)
 ー
  この中に「46歳」という詩がある。
 ここに「死の問題は、生まれた時からすでに始まっていた。」・・・と書いてあった。
死の問題は、生まれた時からすでに始まっていた     
赤ん坊の時 死んでも仕方がなかった。
青年期に 死んでも仕方がなかった。      
だのに私は、いま、46歳             
この 人生の一大事を            
考えさせて頂く一番有り難い年齢に       
     癌をいただいた

 4人の子供を抱えた母親である。ことさらに、嘆きも多かろうが・・・・。
        『お陰様で、46歳で癌を頂いた。』と、喜びを慶んでおられた。

 鈴木章子 氏から、東井氏への手紙に、次のように述懐されていた。

 「癌を告知されてより夫と床を別にしました。
 夫に癌の妻へ気遣わせたくなかったからです。それでは、主人の体が持たないからです。」と、
 そして、
 「毎朝、お互いに『今日も合えて良かったね!』と声を掛け合いました。」と、まるで恋人同士のような会話が交わされるとの報告がされたそうです。

 鈴木章子 氏は、乳ガンに冒(おか)されたのです。乳ガンは→左肺→右肺→子宮→卵巣→脳へ・・・・。と、瞬(またた)く間に転移しました。

 やがて、脳手術のための、頭をくりくり坊主にした。
 亡くなる20日ほど前に、自分の頭を指さして彼女は主人に次のように言ったそうです。
「臨終は私の卒業式        
そしてお浄土の入学式
私 お浄土の一年生よ 」
                                          と、
  くりくり坊主の頭で、笑って夫に言ったそうです。

 「活かさずにはおかん!」という、この仏様の願いは、”死が目前に迫ってもびくともしない世界”を恵んでくださるわけですね。
              ・・・・・・と、東井氏は解説しておられた。

その3 盲学校の6年生が言った。
 『先生!それは僕だって、眼が見えるようになりたいわ!見えたら一度おかぁちゃんの顔が見たいわ!でも、見えるようになったら、「アレも見たい!これも見たい」と、・・・、気が散って僕なんかダメになってしまうかも解らへん。
 見えなくても何ともあれへん。
 先生!見えんのは不自由やで。
 でも、僕は不幸と思うたことは一辺もあらへん。先生!
 ”不自由”と”不幸”は違うんやなぁ?!』と、訴えた。
 この子供に仏法の教えがあったかどうかは解らないが、
大好きなおかぁさんの顔も見たことのない、この小学生の中にも、如来様は想いの中に入り込んでいた。
その4 死刑囚 久田徳三 氏 のことを書いた雑誌 「甦った人」 ー ある死刑囚の証したこと ー  に・・・、
 小学校中学校とできが悪く、学校を出ても悪いことをくり返して少年院に出たり入ったり・・・。
 とうとう死刑囚として投獄されて、教戒師さんとの出会いをご縁に、人間に生まれたと言うことがこんなにすばらしいことであったかと言うことに目覚めた。

 いよいよ最後の日にはお別れの式があるのだそうですが、全てを終わった時に拘置所所長さんが一本のタバコをくれるという。

 大抵の死刑囚の人はその一本のタバコをゆっくりゆっくり出来るだけ時間をかけてゆっくり吸うそうですが、「どんなにゆっくり吸っても全てが灰になって地に落ちる時が来ます。」と、・・そして、「それでは」と言って、13階段を登るのである。
          
 ・・・が、彼は、
 『久しぶりのタバコ、誠に有り難うございますが、久しぶりのタバコで頭がぼんやりしておりましては、折角尊い世界に生まれさせて頂くのに申し訳ございませんので・・、』と、断った。

 これに、係官の人が感動した。
 死刑囚の方の上にも、
  必ず、見事に生時の一大事を超えさせずにはおかんぞ!
           という仏の願いが働いていたのでしょうね。

 「生きて良し 死して良し」ということである。

 私は、人生と言う学校で、一番大切な勉強は、「自分の死と言うことをどんなふうにお受けし、乗り越えていくか?」と言うことだとおもう。

 若い頃から、禅宗も真言のものもキリスト教も本当に勉強してきたが、なかなか「いつ死んでも良い。」と言う心境には至らないわけですね。

 困りに困って、目覚めさせてくれたものは、歎異抄の第9のお言葉でした。

 『お念仏は申しておりますが、いっこうに嬉しくもございませんし、急ぎ浄土へ参りたい心もございませんが、どういうことでございましょうか?』と、親鸞に質問した時に、親鸞は、

「急ぎ参りたきこころが、仏様のお目当てなんだ!」とお答えになった。

「なごりおしくおもえども、           
娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、
かの土
(ど)へまいるべきなり。
 いそぎまいりたきこころのなきものを、
ことにあわれみたもうなり、・・・・・」
                        歎異抄 第九条 より
********************************
   「ちからなくしておわるときに」・・・・ 力尽きてやむを得ず死ぬ  
 誰もが、皆、死にたくなんぞはないのである。
「これで解ったぞ!」と思ったが、また、次のようなことに出会わせて頂いた。

その5  息子が、交通事故で病院のベッドに
 教員をしている息子が、交通事故で病院のベッドに横たわって270日目である。
 3年前に癌を手術した自分が、息子に換わってやることも出来ない。

 自分の時には、周囲から「がんばれ!」といってくれたが、特段に『ガンバル』必要もなかったのである。 「七転八倒しても、如来様の願いがある以上、安心して七転八倒させて頂きます。」という気持ちであった。爽快な気持ちで手術室に入った。

 しかし、息子の場合には、そのような気持にはなかなかなれなかった。代わってもらえないことよりも、代わってやれないことがこんな厳しい大変なことであったか?!ということにぶつかったのである。

 想えば、
 如来様も、衆生の苦しみを代わってくれることが出来ない。
 代わってやれないから泣かずにはおれない、という如来の大悲の中の私の悔
(く)やみごとであった。
 ・・・と、
 目覚めさせて頂いた時に、如来様と一緒にこの苦しみを味合わせて頂いているということに気づいて、なにか救われた気持で満たされた。

 司会者 しかし、一般の人々がそういう思いになれるのであろうか?
 現に、寺の檀家の衆達が、
 毎日、熱心に読経をした住職が癌にかかり、その息子が交通事故にあって死にそうになっているではないか?・・・・・ 如来様は一体何をしていらっしゃるのか?

       と、疑念を抱いている様子である。

 一般には、
 『仏様は、何でも願いを叶えてくださり、仏様に背くものには罰を与えるものだ。』と思っているものが多い。

 ところが仏様でも因果の道理を、お曲げになることは出来ないですね。

 息子の場合、生徒の話によれば、その日に胸に手を当てていたという。
 如来様でも、「もうこの辺で休ませてやりなさい。」と、言っていたに違いない。
 更に、毎日走って日本を縦断するほどの距離を走り続けた息子は「これくらいのことは!」と、その日に信号を無視して横断したという。

 信号無視の結末を、息子自身が背負う以外にはない。
 「代わるものあること無し」なのである。
 植物人間のようになって、機械で呼吸をさせる状態であっても、生かされてあると言うことは、息子も親の自分も「今日も活かさせて頂いている」ということは、まだ、如来様の願いを頂いて在るということに違いない。
 いつ壊れても不思議ではないシャボン玉が、今日もお陰様で親も子も一緒に今日を迎えさせて頂いているそこには、大きな願いがあるということですね。

 一般の方々の中に、『自分も住職のような心境になりたいが、どうしてもそのような心境になれません』という方がおられる。

蓮如聖人;
  私たちは努力しても努力しても、
 汲み取ったものがみんな流れ出てしまう。
  まるで、籠
(かご)のような身の上だ。
  水の中に入れてすくってみても、すくってもすくっても皆出て行ってしまう。
  いくら汲み上げようとしても、
  『あぁ、これで良し!救われた!』と言うわけにはいかない。
  そんな籠のような身の上であるが、
  いっそのこと
 水の中に入れてしまえば、・・・・・、
 「出る」も「汲み取る」もない。
このことは、
 親鸞聖人の 説く 大無量寿経 に・・
至心(ししん)廻向(えこう)
   願生彼国
(がんしょうひこく)
   即得往生
(そくとくおうじょう)
   住不退転 ・・
「至心(ししん)に廻向(えこう)し、彼の国に生まれんと願ずれば 必ず往生を得、不退転に住せん。」
         大無量寿経
   とある。これを親鸞聖人は以下のように読まれた;
「至心(ししん)に廻向(えこう)したまえり、彼の国に生まれんと願ずれば
 即ち往生を得、
・・・

 親鸞様は、”・・したまえり”と、送りがなをおつけになっている。

 如来様が、ひたすら願っておられる・・・ということである。
 こちらから「お助けください!!」と願うのではないのだ。
                   ・・・と、強調されたのである。

 これを、第十七世法如聖人は、よく受け継いで、以下のとおりに説いている。
「助けてくだされよ、というにあらず。        
助かってくれよ、とある仰せに従うばかりなり、
 ・・・・・・・・・・・・・・・」
第十七世法如のことば より
 こちらからお願い申すのではなくて、お救いのお慈悲の中に体ごと浸させて頂くことが大切なのである。

その6 高血圧に苦しんでいる妹から手紙
 妹も高血圧に苦しんでいる。・・・・・・・。手紙をくれた。・・・・
「お互いにひび割れた茶碗の身の上です。
終着駅が目前に見えてきた感じですね。
  でも、        
いつ壊れても,        
 ”まちがいなく御手
(みて)の真ん中”、
ということがありがたいですね。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
返事


「壊れてから、
そこで如来様がすくい上げてくださるとしたら、
”ひょっとして、お目こぼしなさって
拾い上げて頂けないこともあるかも知れない。”
   ・・・と心配もあるが・・・。
 しかし、ひび割れて汚くなった古茶碗の、
今現在でも、御手の真ん中なんだから、
いつ壊れても”間違いなく御手の真ん中”なんだね。」、・・・・・
  ・・・・・と、病身の妹に返事を・・・・・。

 拝んで救いを求めるのではなく、この存在そのままが生かされている。
 これこそが御手の真ん中。
    仏の方から、私たちは拝まれている。そして願われている。
            そうなると、なにかにをすることは、なにも無いのです。

「ただ、わが身をも心をも                
 はなちわすれて、仏のいへになげいれて、      
 仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、
 ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、
 生死
(しょうじ)をはなれて仏となる。
 たれの人か、こころにとどこほるべき。」


道元禅師 「正法眼藏」 より
 水を汲み上げるのではなく、自分自身がすっぽりと水の中に入ってしまうことだ。
 「水を汲み上げようとする」・・このことは、ヒトの”はからい”である。(浅はかな計らいでは、到底、・・・・・・・)
出 隆(いで たかし) 氏は、
「溺れる者は、浅いところで、自分の心の重みで溺れている。
   身も心も水に預けてしまえば、自ずから浮かぶものである。」

その7  ある若い自殺志願者から電話
○ ある若い自殺志願者から電話があった。内容は次のごとくであった。
 「周り中の全てが私を裏切り・そむき・見放した。もう生きる気力もなくなった。」
 「しかし、ちょっと気に掛かることがあるのですが・・・。」という。
 何が気に掛かるのかと問うたら・・・
 「南無阿弥陀仏」と唱えながら、首をつったら間違いなく仏様の世界に行けるのでしょうね?

 氏は、応えていった。
 「止めておきなさい。」・・・・怒鳴った。
 「あなたのこしらえ物のナンマンダブツが何の力になるのか?!」
 「止めておきなさい。」
              
 
『これは意外!』

という雰囲気が

電話機を通じて

伝わってきた。

              
 『ではどうすればよいのですか?』

 「あなたは周囲の人間が自分を見放したと言って死のうとしている。」
 「周り中のみんなだけではなく、あなた自身が、今、あなたを見放そうとしているではないか!」

 「自分自身さえも見放そうとしているあなたを見放さないで、『どうか、生きてくれ!』と、ひたすら叫んでいる叫び声が聞こえないのか?!」

 『何処にもそんな声は聞こえません。』

 「何を言っているのか?!」
 「あなたは今、呼吸をしているではないか?!その呼吸が、今死のうとしているあなたに『どうかしっかり生きてくれ!』という叫びではないか?!」
 「心臓が、『辛かろうがどうか考え直して生きてくれ』と叫びながら、ひたすら動いて叫んでいるではないか!」

 「これが本当の南無阿弥陀仏だ!」

 「『助けてくだされ!』という声より、
 『助かってくれ!』という願いの絞り出すような叫びが本当の南無阿弥陀仏なんだ!」         →

 「これにであわなんだら、生きても死んでも、あんたの人生なんぞ空しいんだ!」
 『大変な考え違いをしていたようです。』と、電話の向こうでつぶやいていた。
             
 恐らく、首つりは止めてくれたことと思う。

 そんな自殺の相談も多い。
 「どんな辛さも願いの中なんだ!」ということが解ると有り難いのだが・・・。

その8  5歳の子供の詩に学ぶ
 幼稚園の5歳の子供の詩
「『僕の舌動け !』 というたときは
   もう 動いた後や     
僕より先に          
    僕の舌 動かすものはなんや ? 」
 5歳の子供が、「自分の”生きているという存在”のそこに、働いてくれているものがある。」ということを感じているのですね?!

 自分(東井氏)は、25歳にもなってから目覚めさせてもらったわけですから・・・・。

 ヒトは生まれた時には生物学的な人間である。
 しかし、まだ本当の人間とはいえない。
 第二の誕生を経て
  大きな永遠の命につながった自分であるということに目覚めた時に”本当の人間になった”といえる。

 やはり、
 「至心
(ししん)に廻向(えこう)したまえり」である。

◇ 講師・東井(とうい)義雄 氏のこと
 明治45年 春 兵庫県但東町の寺に生まれる。 浄土真宗本願寺派・東光寺住職。
  当時、村全体が貧しかった。粗末な食べ物のことを「お寺のごちそうみたい。」というほど、寺は特に食べ物がなかった。
米のとぎ汁に大根を米粒ほどに細かく切って炊いて食べた。冬には氷ってしまった。これにお茶をかけて食した。
一番安くて勉強できる学校が師範学校であった。
卒業後、小学校・中学校勤務。 1991年4月逝去。
  日本のペスタロッチーと呼ばれ兵庫県豊岡市但東町出合150 (但東町役場隣)には、氏の記念館がある。
              LINK  →    http://www.toikinenkan.jp/

   
                     

 東井義雄さんの略歴は、東井義雄記念館のホームページに、次のように紹介されています。

1912年 (明治45年) 4月9日、兵庫県出石郡合橋村(但東町)佐々木の東光寺の長男として生まれる。
1918年 (大正7年) 小学1年生の5月、母と死別。
1923年 (〃12年) 苦学し小学5年生で中学(旧制中学)入試資格試験に合格するが、貧しさのため父の許しが出ず、諦める。
1927年 (昭和2年) 「一番安く学べる学校」という理由で、師範学校(姫路)に入学。
1932年 (〃7年) 師範学校を卒業、豊岡市豊岡尋常高等小学校に着任。以来10年間在職。
1935年 (〃10年) 多くの論文を発表、綴方教育界でその存在を認められるようになる。
1937年 (〃12年) 結婚
1938年 (〃13年) 父と死別
1941年 (〃16年) 愛児の大病
1942年 (〃17年) 故郷の合橋村立合橋国民学校に転勤
1944年 (〃19年) 合橋村立唐川国民学校に転勤
1945年 (〃20年) 敗戦
1947年 (〃22年) 相田小学校(小学校時代の母校)に転勤。
 14年間勤務する。その前半は、書くことがあれほど好きな東井であったが、戦争責任を感じ沈黙を守る、いわば苦悩の時代であったといえる。しかし、見方を変えれば、東井の教育生涯の中で最も地に足のついた教育を実践した時代であったともいえる。その証明が学校通信『生が丘』であり、やがて発刊される『村を育てる学力』である。
1959年 (〃34年) 相田小学校長となる。
ペスタロッチー賞」を受賞
1960年 (〃35年) 「小砂丘忠義賞」受賞
1961年 (〃36年) 但東町立高橋中学校長となる。
1964年 (〃39年) 神戸新聞社より「平和文化賞」を受賞
八鹿町立八鹿小学校長となる。
1967年 (〃42年) 兵庫県知事より「教育功労賞」を受賞
学習研究社より「学研教育賞」を受賞
1971年 (〃46年)  文部省より「教育功労賞」を受賞
1972年 (〃47年) 定年退職。40年間に渡る教員生活を終える。
1973年 (〃48年) 退職後1年は八鹿町社会教育指導員となるが、その後、姫路学院女子短期大学講師。続いて兵庫教育大学大学院非常勤講師を兼務し、教育活動を続ける。
1981年 (〃56年) 但東町より「教育特別功労賞」を受賞
1982年 (〃57年) 内閣総理大臣より「勲五等双光旭日賞」を受賞
1987年 (〃62年) 検査入院の結果、胃ガンと診断され、入院。胃部の三分の二を切除。
1988年 (〃63年) 正力松太郎賞」を受賞
1991年 (平成3年) 4月18日豊岡病院にて逝去
内閣総理大臣より叙位、従五位に叙せられる。
     
                   
 子供の頃、祖父母は、毎日、朝夕、欠かさずに仏壇の前に座って読経をしておりました。孫の私はそれに必ずお付き合いをさせられました。
 それはそれは、退屈な日課でした。
 通常は、祖父が行いました。祖父が脳溢血で倒れると、今度は祖母が行いました。
 孫の私には、交代要員は居ませんでした。毎日欠かさず読経のお付き合いをさせられました。
 ある日、読経をする祖母の後ろから、読経の最中に祖母の背中に両手を置いて、背中を揺さぶりながら、問いかけたことがありました。
 『ねぇ!ばぁちゃん! どうして毎日なの? 何故こんなことをするの??』
 祖母は、一心不乱に読経を続けて返事をしませんでした。
 忘れられない思い出です。
 わたしは、同じ質問をくり返しました。・・・・・。返事をしてくれなかったので、つい、背中を揺さぶって聴くことになったのです。
 祖母は、読経を止めずに・・・・、それでも息継ぎの合間にこう孫の私に応えたのでした。
 私:『仏さんはエライの?』。・・・・。読経は続いた。
 私はくり返した。
 祖母:『違う!』・・・・・。読経は続けられた。
 私:『エラくないんなら、・・・・、どうして??』・・・・。読経は続いた。
 祖母は、相変わらず読経を止めずに、しかし、後ろに座る孫の私に次のように答えた。
 祖母:『
トオトイのじゃ!!
 この時には、この始めて聞いたトオトイという言葉の意味が分からなかった。・・・・・。この言葉、私の生涯を通した課題となった。
                
 
 東井義雄さんのお話を伺いながら、今、祖母の『トオトイのじゃ』という言葉を思い出し、それが納得できる気がする。
                              ・・・・・・・・・・・管理人・ 苦縁讃

 ☆ 補 足
法然上人はいう 人が念仏を念ずれば      
        仏もまた人を念じ給うと。
親鸞上人はいう 人が仏を念じずとも       
        仏は人を念じ給うと。
しかるに 一遍上人はいう           
それは仏が仏を念じているのであると・・。    
                「南無阿弥陀仏」   
柳 宗悦より